親のつとめ

人を好きになるのは、合理的正論。
 
好きだから好きと言う話は筋が通った正論で合理。
 
しかし。
愛すると言うのは何と不合理な事か。
 
 
親として我が子を愛する気持ちに疑いなし。
しかし、好きかと問われれば、些か悩む。
 
我が子の言動考え性格容姿。
ああ何と憎たらしい言い草なのか。
ああ何と腹の立つ事を仕出かすのか。
なな何とだらし無い性格なのか。
もう少し鼻が高かったなら。
もう少し目が大きかったなら。
もう少し勉強が出来たなら。
もう少しもう少しもう少し。
 
必ずしも、好きな部分だけではない我が子。
 
 
しかし、好きではないが在るにも関わらず、我が子を愛しいと思う気持ちに偽りがない、この不合理。
 
好きでは無いのに愛しい不合理な不思議。
 
駄目なとこばかりな我が子だからこそ、愛してしまう事の、何と不合理な事か。
 
 
そんな不合理を生じてしまうのは、血故か。
同じ血を分けた我が子だからだろうか?
いや、同じ血を分けた親族に不合理な愛は生じない。
ならば、共に過ごした時間故だろうか?
いや、一日のおおよそを過ごす同僚に愛しさなど微塵も感じない。
 

不合理さは感じるが。
 

さて。
我が子を愛しくて思う不合理さ、その源泉は。
なぜ腹立たしく思う我が子を愛する?
なぜ疎ましく思う我が愛しく思う?
なぜ感情的なぶつかり合いをしている最中も、愛おしく思う?

   
 
 
 
逆か。
 
 
不合理ながらも愛おしく思うから、我が子なのか。
 
  
では我が子を思う愛とは?
好きではなく、愛とは?
無償の愛とは?
我が子に対して生じる感情は、愛なのか? 
 
こちらの問を無視するアノ小憎たらしい態度に湧き上がる怒りも、愛なのだろうか。
 
いやそれは怒りだろう。
合理的正論な怒り以外の何ものでもない、怒りだろう。
 
 
では、我が子を愛おしく思う、愛とは?
 
 
 
それは
 
 
  
我が子を信ずる気持ちに他ならん。
 
期待ではない。
期待は、親が我が子に掛けるモノ。
 
信じるは、親が自分自身に示すモノ。 
 
 
我が子を信じると自分自身の決意覚悟を自分自身に示す行為。
 
それが我が子を愛する事。 
 
 
我が子を、我が子の未来を信じ抜く事が、親の愛であり、親たる者のつとめ。
 
  
馬鹿野郎のアホタレでどうしようも無い我が子を、誰よりも信じるのが親のつとめ。
 
その覚悟決意があるからこその、親。
 
 
 
手の掛かるバカ娘が!
ちゃんと信じて側に居るから、肩の力抜いてやってみろ!
 
 
 
バガボンド読んだ父より。

yatte-mio

息子と娘の事とサッカーの事と好きな事と書きたい事。

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