育児 叱り論2
怒ると叱るは違うと言います。
goo辞書によれば
おこ・る【怒る】
[動ラ五(四)]《「起こる」と同語源。感情が高まるところから》
1 不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって―・る」
2 よくない言動を強くとがめる。しかる。「へまをして―・られた」
goo辞書によれば
しか・る【叱る/×呵る】
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」
とあります。
明確な違いとして、感情的かどうか、なのでしょうか?
では、私が子供を叱る場合、目下の者の言動のよくない点などを指摘して、がまんできない気持ちを表しつつ、強くとがめるので、叱怒(しかおこ)るでしょうか?
傍から見るとどう映るのかは分りませんが、私の内では先ず、子供の良くない点を指摘します。指摘しても改善されなければ、とがめます。とがめても、改善されなければ強くとがめ(叱り)ます。強くとがめている内に改善の兆しが見えれば、トツトツと説きます。が、改善の兆しが見えないどころか、反抗的不満が見えれば、怒ります。怒っている事の意思表示として、怒鳴ります。それでも改善されなければ声を荒げる、と言う相手の変化に対応している積りなのですが、傍から見るとただ罵っているだけと映る様です。
私のこのやり方を肯定も正当化もする気はありません。
ただ単純にこのやり方しか知らないと言うだけです。
このやり方が効果的「だった」と言うだけです。
より良い、子供への接し方があれば、寧ろご教授頂きたい限りです。
叱る怒る怒鳴るのも楽ではないのです。
1を聞いて10を知り、打てば響いてくれたら、どんなに楽か。
しかし
10を言っても1を知ったか?
打っても空振りしてないか?
が現状です。
そして、我が親子共々の資質能力の至らなさもあるのでしょうが、子供とはそういう者で、親とはそう言う役目なのだと私は思っています。
つまり、子供は同じ過ちを繰り返し成長し、親は子供の成長の為に同じ過ちに付き合うのが役目なのでしょう。
人の成長は真っ直ぐな階段ではないと思っています。
回り廻った螺旋階段の様なものだと思っています。
同じ失敗をして同じ景色を何度も見て、いつまでも同じ所に居るようだけれど、その実、一段上に上がっている。
小さく低い一段上かも知れませんが、それでも上に上がっている。
その繰り返しで頂上最上階に登り着くのだと思います。
子供に口が酸っぱくなるほど繰り返す同じお説教は、実は同じではなく、一段上に上がって居ているんだと思っています。
それくらいに思わなければやってられません・・・。
たまに、「私は1度言いました。後は知りません。後はあの子の責任です」、と言った親御さんの意見をSNSなどで眼にしますが、それでは親の責任放棄、の前に、コミニュケーションとすら言えないのではないかと思います。
言った言わないは、どこでもある不毛な水掛け論。
そもそも、何度言っても相手に伝わらなければ、言ってないのと同意。
言ってないのと同意なのですから「私は言った。伝わらないのは相手が悪い。」
では、言い訳にすらなってないと私は思います。
コミニュケーションですから、意思の疎通ですから、互いが互いの理解の為に寄り合い問い掛け合い確認し合うのが基礎根幹。
伝わってないのなら伝わる様に創意工夫が必要。
勿論、話を受ける方にも相手を理解する創意工夫が必要です。
会話はキャッチボールです。
相手に受けやすい様にボールを投げ、相手から来た球をまた相手に取り易いように返す。
球が取り難いのなら、取り易い様に投げ、取り易い所を伝える。
それが「私は言った。伝わらない相手が悪い!」では、キャッチボールではなく、ただの投げ合い。
「ほら。取ってこい!」のただの暴投です。
話が逸れましたが、子供に伝わるまで伝え続ける、それが親としての役目だと思い、今日も同じお説教を繰り返します。
小さな小さな上に上る一段を探しながら。
続く・・・予定
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