育児 叱り論1

子供は褒めるだけでは育たない。

子育ての自論です。

権利の前に義務がある。

人生の自論です。

伝わらない言葉は伝えてないのと同意である。

経験談です。


1人の男の子を12歳まで育てました。

家族共に、1人の男の子の小学校生活を6年間を経験しました。

しかし、これから始まる中学校生活は未知。

13歳の男の子を育てるのは初体験です。

そして、7歳の女の子を育てるのも初体験です。

娘の幼稚園生活は兄で経験した3年間とは、まったくの別物でした。

息子の焼き直しではありませんでした。


つまりは、これから始まる娘の小学校生活も、未知。


全てが未知なる経験の中で、如何に間違いなく子供を育てて行くか。

どう親として導いて行くか。

悩みは尽きませんし、正解もないのだと思います。


しかし、正解がないのに間違えれない子育て。

そして、結局の正誤は、親次第だと言う事になるのだと思います。

親の思考資質立場環境エゴ信念に寄って、過程も結果も正解にも間違いにもなるのだと思います。


私の子育ての結果の正解は、自立しいる事。

では自立とは何かと言うと、自己努力が出来、自己責任も取れる事。

例えるなら、人生の挫折を経験する事なく歩む事ではなく、人生に何度挫折しても起き上がり歩き続けれる強さを持つ事。


その様な人物に成る為にどう育てて行くか。


父親として試行錯誤し6年間色々と失敗してきました。


12年間失敗を繰り返した私の自論。

子供は褒めるだけでは育たない。

権利の前に義務がある。

伝わらない言葉は伝えてないのと同意である。


世間では、叱らない子育て論なるものがあります。

私も、人は褒めなければ伸びないと言う事を痛感しました。

ですが、叱らない子育てには否定的です。


否定的な理由の第一に子供・幼児には、言葉が通じないと言う事。

言葉以前に大人の理屈は子供には通じません。

第二に、自由を求めるのなら、人に迷惑を掛けないと言う、責任を全うしなければならない。


電車の車内で先日も見た風景です。

まだ2歳ほどの女の子が1人電車内を走り回っておりました。

女の子の傍に親の姿は見えない。

どこの子かと見回すと、隣の車両から馬鹿笑いしているお母さんの声。

その馬鹿笑いが途絶えた時「**ちゃん走ったらダメよ!」

そんなものが幼児に伝わる訳がありません。

いくら良い事を言おうが、どんな立派な事を言おうが、相手に伝わらなければ、言ってないのと一緒。

実際、どんなに親御さんが「ダメだ」「走るな」「じっとしてろ」と言っても無駄。

幼児は言葉も理屈も理解出来ずに走り回ります。

幼児にとって、揺れる電車の中は、公共の場ではなく、刺激的な遊び場なのですから。

そんな伝わりもしないお題目を唱え、右隣の車両に幼児が消えて行った時、左の車両からノソノソとお母さんが登場します。

社内の白い目には流石に気付いたようで、娘を連れ帰るお母さんは「もうじっとしなさいって言ってるでしょ?お母さんの言う事聞いて」と口にしていますが、ものの5分もしない間に、再び走り回る幼児。


「こら!!!」と私が一喝しようと思った矢先、お母さんに手を取られ下車して行きました。


電車内で走り回る。

公共の迷惑にもなりますが、幼児本人の怪我にも繋がる危険行為。

しかし、そんなものをいくら言い聞かせても、幼児に分る筈もありません。

理解に繋がる素地・経験がないのですから。

どう言葉で「あぶない」「痛い」「怪我をする」と言った所で経験がなければ理解不能。

熱いモノに触ったことが無ければ、熱さなど分る筈もなく、熱さの危なさも分る筈がないのです。

しかし、きちんと「叱れ」ば、未然に痛さ怖さを経験させれると、私は考えています。


先ほどの走り回る幼児の場合、仮に私が一喝していれば、幼児は驚き泣き叫ぶでしょう。

そして、知らないオジチャンに叱られた事が怖ければ怖いほど、強烈な印象として心に残り、「車内で走り回る」=「叱られて怖い」=「走らない」と言う図式が形成され、大怪我をする事なく痛い経験を積めます。


これは近年では、PTSDと忌み嫌われ、一喝した私が訴えられます。


どこぞの馬鹿親の為に、我が家族を犠牲にし訴えられるのは割に合いませんが、その場合は馬鹿親共々道連れの覚悟です。



まぁ実際出来やしませんが。


続く





yatte-mio

息子と娘の事とサッカーの事と好きな事と書きたい事。

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