祈るな戦え

多分、修羅の門に出て来たセリフ。
 
 
何か困難が起こった時に、何かにすがり祈るのでは無く自らで困難に立ち向かえ、と言う意味で言われた言葉。
 

座右の銘の1つとしてずっと掲げて居た言葉。
 
戦う事の否定は勿論しないけれど、祈る大切さを肯定しだした自分が居る。
いや自分の中で、祈る事の意味が代わったのか。
 
祈りは願いであり希望。
 
そう考えれば、戦う源泉は祈りなのじゃないかと思う。
願いや希望があるからこそ、自らが戦える。
逆に、願いや希望のない戦いには、終わりも勝利もない。
 
何のために戦うのか分からない戦いなど、必要ない。
 
今までは、戦うと言う言葉の為に、戦おうとして来た気がする。
そして、祈りを他力本願として受け取り、戦わず他力本願の自分だったからこそ、この言葉を座右の銘として掲げ続けて来た。
 
それが「祈る」事の意味が変わり、戦えない自分を肯定出来る様になったのは、自分の中で少しづつでも積み重なった何かがあったからなのだろう。

何も積み重ねてないと思っていた事が積み重ねになる偶然は、偉大な何かなのか。
また我執に囚われ不自由になっていただけなのか。
 
全ては繋がっている。
全ての物事は正しい時に正しい場所で起きる。
 
 
何度も何度も引用してきたこの言葉。
「我執」と「自由」「不自由」にも繋がった。 
 
全く違う所で知った言葉が繋がる不思議。
 

偉大な何かが実在するかは知らないが、少なくとも、凡夫以下の俺の知り得る事など如何程もない。
ならば、今知りたる何かにすがるなど、自分如きが過ごしたモノに事の根拠を求めるなど、不自由極まる。
 
手放せば自由無限に得るの意味が少し分かった。
 

yatte-mio

息子と娘の事とサッカーの事と好きな事と書きたい事。

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