近所の人「(諒さんは)素直そうな感じでしたけど、出会ったりすると挨拶はちゃんと、おはようございますとか」
千葉の姉が弟をバラバラにした事件。
この手の事件で毎度思うんですけどね。
出会って挨拶するのは、当たり前の当たり前だと思うんですよね。
挨拶できるから、素直そうとか、真面目な人だと思ったとか。
多分こんなコメントする人は、当たり前に挨拶出来ない人なんだろうなぁと思うんですよね。
自分が当たり前に挨拶してりゃ、相手が挨拶してたって当たり前な訳です。
当たり前だから、挨拶する事に特別な価値を置かないし、だから、人物評価をする際の基準に挨拶の有無なんて上がってきやしないと思うんですよね。
実際私毎朝、近所の子達とすれ違う時に挨拶しますけどね、ちゃっと挨拶返して来た子なんて覚えてないよね。
挨拶するのが当たり前すぎて、挨拶返して来た子は逆に、挨拶したかも覚えてないよね。
むしろ、挨拶しない子の事は良く覚えてますわ。
こちらの中では、当たり前じゃない事されたから。
挨拶するしないだけで、その人物の評価など出来ないって事ですけどね。
挨拶しないから悪いって話ではありませんよ、念のため。
色々難しい世の中ですからね。色々ありますから。
当たり前と言えば、この遺体損壊、所謂、バラバラについても毎回思います。
バラバラ殺人は猟奇殺人で異常犯罪者だ!って件。
京極夏彦氏が氏の京極堂シリーズの中で書かれてましたが、そもそも、人を殺める事自体が異常なんですよ。
遺体損壊が異常なんじゃなくて、人を殺める事が異常で、殺める瞬間にこそ狂気が宿ってるんですね。
狂気に駆られ人を殺め、狂気が去り冷静になったからこそ、バラバラにしてしまう。
バラバラにした時は、超合理的で普段の数倍冷静なんだと思いますね。
つまり。
冷静に考えれば、人を殺める事の重大さ、破滅さは理解出来るはず。
だからこそ如何に腹が立とうと感情的に成ろうと、一線は超えない。
でも、その一線を越えてしまうのは、その瞬間、狂気が宿るから。
逆に遺体を損壊するのは冷静だからこそ。
冷静に事の重大さ破滅さを理解したからこそ、この事実を隠ぺいしようとする訳です。
眼の前にある終末的現実を合理的かつ完璧に隠ぺいしようとするからこその損壊な訳です。
大きいままじゃ隠せない。
これを隠すためには小さくするのが合理的。
しかもこれはもう人ではなくなっている・・・。
解体の時点では、狂気ではなく超合理的思考が働いている訳だと、京極夏彦氏は書いている訳です。
なんでもかんでもセンセーショナルに報じて金の成る木に仕立てておいて、自らは正義のジャーナリズムと厚顔無恥に宣するマスコミこそ、狂気ですわ。
0コメント