トム・ソーヤーの冒険 (新潮文庫)マーク トウェイン (著) 柴田 元幸 (翻訳)
トムソーヤの冒険は、幼いころテレビで見ていた物語。
わんぱくなトムソーヤ。
親友のハックルベリー。
ガールフレンドのベッキー。
叔母さんのポリー。
優等生でキザな弟のシド。
ミシシッピー川のほとりで暮らす子供たちの冒険譚。
それを大人になって読み返す面白さ。
マークトウェインと訳者柴田氏の奏でる、抒情的で詩的で牧歌的で神学的な文書は、とても美しい。
そして、主人公トムを始め1830年代の作中の子供たちの純朴さ実直さ滑稽で愛らしい愚直さには、懐かしさを感じ、私が過ごした1980年代まで何一つ変わらないことに、心地良いおかしさを感じる。
まったく違う時代を生きたはずなのに、我が事の様に愛おしく気恥ずかしい。
しかしこの感覚は、今の時代の子供たちには相通じない感覚なのかと言えば、多分そうではない。
作中にも出てくるが、200年前の若者も「伝統を疎ましく思い」、「新技術を享受し」、「新しい時代を生きて行く」、「これまでの旧態依然の生活とは一線を画したい」感覚を持っている。
その感覚は、2018年の現代の子供たちにも通じるのではないだろうか。
結局は、技術革新で生活は一変し、物事の善悪に多少の変化は生じても、人の根本的な感覚は変わらないと言う事なのだと思わされる。
いや、その変わらない感覚を今の若者は寄り強く感じているのかも知れない。
そう感じる極めつけが、作中最後のハックの言葉に表されている。
「だってハック、みんなそうやってるんだぜ」
「そんなの関係ねぇよ。俺は『みんな』じゃない、あんなの我慢できねぇんだよ。あんなにがんじがらめに縛られるなんて、冗談じゃねぇって。それに、食いものは簡単に手に入りすぎる-あれじゃ食う気も失せちまう。釣りに行くのも頼まなきゃいけね、泳ぎに行くにも頼まなきゃいけねぇ、何をするにも頼まなきゃいけねぇんだ。あんなに礼儀正しく喋らされると全然くつろげやしね-毎日屋根裏に上がってしばらく悪い言葉吐かないと、口の中がからからになっちまう。あれやらなかったらいまごろ死んでるぜ。(途中略)逃げるっきゃなかったんだよトム-そうするっきゃなかったんだよ。だいいち、もうじき学校が始まって、そしたらいかなきゃなんねぇ-そんなの俺我慢する気ないぜ、トム。いいかいトム、金持ちなんて世間で言うようないいもんじゃねえって。くよくよ気苦労ばっかり、だらだら汗かいてばっかりで、ああもうこんなんだったら死んじまいたいって思ってばっかりさ。俺にはこういう服が合ってるし、この樽が合ってるんだ。もう二度とこういうのを捨てる気はないね(以下略)」
いつかの午前零時に盗賊団の結団式をする事をトムとハックが誓って終わるこの物語。
「自分らしく自由に生きる」事こそ、普遍的で最も手に入れがたい「宝物」なのかも知れない。
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