在るべき形

今回の息子の怪我について以前なら、致し方ない、すべき事をした結果の怪我と言いながら、最近メッキリ調子の良い息子だけに、幾分か凹んだはず。
いや、ガッツリ沈む気持ちを、仕方ない仕方ないと無理矢理に上に向かせてたと思う。
 
全治までのブランクで、折角良くなった間合いや寄せのスピード、身体の使い方が後退するのではないか、怪我の痛みを知った恐怖心でもう身体が張れないんじゃないかと言う、自分勝手に作り上げた嫌な予感に取り憑かれ、1人でイライラしていたと思う。
 
 
が、今はそんな不安もどこ吹く風。
復帰後は、怪我の恐怖心でよりもっとシッカリ身体を当てだすかも知れない。
自分が飛ばされて怪我がするのが怖いから相手を吹き飛ばそう。
怪我が怖いから早目に身体を当てて自分のスペースを作ろう。
そうより良い方へ変化するかも知れない。
そんな予感で胸が高鳴る。
 
 
今までなら、痛い痛いと言う息子に、「痛い痛い言っても治らんわ!」とイライラが募り「痛み止め飲んで寝るしかないわ!」と怒鳴り声の1つは上げたはず。
しかし今は「そりゃ痛いよな。まあ痛い痛い言って痛さ吐き出しながら耐えるしかないわな」と言うどこか醒めた心持ち。
 
 
 
思うに、以前は息子の怪我の痛みまで受取ってやろうなどとイキんだ心持ちだったのだろう。
 
なんと思い上がった事か。
 
勿論、替われるものなら替わってやりたいが、それは所詮は無理な話。
息子本人が頑張るしかない。
  
自分が出来ない事にまで責任を感じて、イライラしていた去年。
それが不自由にしていると思い出した今年。
 
自分が出来る事などたかが知れている。
だからこそ、出来ない事は手放して、出来る誰かにお任せする。
その結果。
怪我して不便な兄のお世話を、妹が仕出した。
兄は兄で、痛い痛いと言いながら、どうにかしようと自分で工夫しだした。
 
手放せば舞い込む不思議。
 
手放すからこそ流れ着く不思議。
 
 
結局は、なる様にしか成らず。
成る姿こそ在るべき姿。
在るべき姿が、もっとも調和した自然の形。
 
  
ならば、それで良し。

yatte-mio

息子と娘の事とサッカーの事と好きな事と書きたい事。

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