子供は親の言った通りには育たない。が、
子供は親の鏡とはよく言ったもんだと、痛感させられる。
自分が子供の頃にはアレコレ口喧しく言われる事に反発し、まともに親の話には耳を傾けて来なかった。
親に言われるまでも無く、外面の良さには自信もあった。
親が求めているのであろう人生には全く興味がなく、寧ろ、自分が大切と思う事はその対極に居る様に感じていた。
だからこそ、自分の遣りたいことを遣り通す我儘を通して来たのだが、親不孝者と自分自身を戒めの目で見てみる事もある。
が、親孝行の為に自分自身を犠牲にして生きる事が、本当に親孝行だろうかと思って来た。
そして自分自身が親になってみて、自分が親孝行をされる身になってみて、やはり思う。
子供自身が自分自身の人生を謳歌して自分の為に自分自身の人生を使ってくれる事が、何よりの親孝行だと思う。
もし、何か子供達が遣りたい事を親の私の為に我慢しているのなら、迷わずぶっ飛ばす。
経済的に困難で諦めている事には親として謝るしかないが、ただ、自分の力で経済的困難さえ乗り切れる様な人材には育ててやる。
経済的な能力と、何不自由ない裕福な家庭は、別物。
裕福な子供時代は与えられないが、裕福な大人になる基礎は与えてやれる。
親の背をヒントに自分自身で人生開拓していく力こそ、身に着けさせたい。
子供達に歩みやすい平坦な道を作ってやる前に、転けたら立ち上がる力を身に着けさせたい。
と言う子育て方針の結果、結局あれ程に親にとやかく言われるのを嫌がっていた私が、子供にあれやこれやとやかく言う馬鹿親に成り果てている。
年々、疎ましかった親父に言う事が似てくる私自身を、私自身が嘲笑せざるおえない。
しかしこれは、自分自身が老いたと同時に、親として経験を積んだからこそなのだろう。
しかし経験を積んだとて、それでも子供と言うのはやはり親が言う様には育たない。
子は親の鏡とばかりに育つ。
子は親の言う様には育たないが、親がやった通りに育つと言う。
詰まりは、我が子を観察すれば自ずと、私自身の至らない部分が露見すると言う事。
自分自身の足らなさを自分自身が疎ましく思い自分自身で指摘する。
いやはや。
親になると言うのは、自己矛盾に満ちた悩ましいものだ。
しかし、私が成りたかったのはコレなのだ。
スポーツ選手でも社長でもなく金持ちでもなく、親に成りたかったのだ。
子と共に悩み笑い悲しみ喜ぶ、親に成りたかったのだ。
子供にとっては迷惑千万だろうが仕方ない。
これが、私の親孝行なのだから。
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