座間市の容疑者に感じる違和感
座間市の9人殺害事件。
伝え聞くに猟奇的事件の様相を色濃くして来ましたが、他の猟奇的殺害事件の容疑者に比べて、この容疑者には少しばかり違和感を感じます。
3か月の間に9人を殺害し、遺体を自宅に保管していた事で、猟奇的殺人・快楽殺人と言う容疑者の側面がフォーカスされて、シリアルキラーなキャラクターに世間の関心が行っています。
確かにこの容疑者が反社会的で反道徳的な特殊なキャラクターであるのには変わりませんが、9人殺害したからシリアルキラーな異常殺人者ではないのです。
人を一人でも殺せば、それは反社会的で反道徳的で超えては成らない一線を超えた、異常者なのです。
何人殺害したから猟奇的な異常者なのではなく、殺害の動機が猟奇的だから猟奇的異常者なのです。
つまり、快楽目的で1人殺害しても9人殺害しても、猟奇的異常者なのです。
また、遺体を損壊し自宅に保管していた事自体は、異常ではなく正常な思考能力の証左にもなり得ます。
殺害はしたが逮捕されたくない。
逮捕されないためには、証拠を隠蔽せねば。
と考えるのは至って普通の思考です。
そして目の前にある遺体の隠滅の難しさに途方にくれ、何処かに遺棄するよりも、自分だけの目に留まる所に保管する事が、臨機応変に証拠隠滅を保持し続けれる方法と考える事は、すこぶる合理的思考です。
処理に困りどこかの山中に遺棄しても、遺体が発見され事件が発覚した事例は枚挙に暇がありません。
しかし、遺体さえ発見されなければ事件は発覚しないのです。
自宅と言う極パーソナルな密室に保管していれば、常に自分の監視下に置かれ、自分が留守にしても極めて機密性が高く、事件発覚の可能性が極めて低いのです。
理屈ではそうでも遺体と暮らす事はやはり異常だと言う意見もありましょうが、人を殺めた瞬間が既に異常なのです。
事件発覚逮捕と肉塊と過ごすことのどちらに恐怖を覚えるか。
どちらも嫌だからこそ、人は人を殺めないのです。
しかし究極の選択を迫られた時に、どちらを選ぶのが正常でしょうか?
人を殺める瞬間こそ冷静さを欠いた異常な心理状態でしょうが、その後事件隠匿の為に遺体を損壊し保管する事は、冷静な思考能力の証左です。
つまり、何人殺害したか、遺体の扱いをどうしていたか自体は、犯人の異常性を証明するものではないと感じます。
そして座間市の容疑者に感じる、猟奇的異常犯罪者とは違う違和感があります。
近年の事件で異常性を感じた2名。
東名高速での煽り事件を起こした石橋容疑者。
相模原障害者施設殺害事件の植松容疑者。
この2人と比べ、座間市の容疑者に感じる違和感は、移送中に撮られた写真です。
石橋容疑者も植松容疑者も、移送中に顔を隠していません。
石橋容疑者は、罪の意識が欠落したかの様な、まるでコンビニにでも行くような感情の抜け落ちた顔を隠しもしていません。
植松容疑者に置いては、誇り昂ぶったご満悦の表情を自らがカメラに晒しています。
しかし、座間市の容疑者は顔を手で置い俯いています。
そこに猟奇的シリアルキラーなキャラクターとの違和感を覚えます。
だからと言ってこの容疑者を擁護する気は更々ありませんし、厳罰を持って裁かれて当然と考えますが、興味本位で騒ぎ立て猟奇的殺人者のキャラクターを作り上げようとするマスコミや、聞きかじった情報だけで快楽殺人者のキャラクター像を植え付ける識者コメンテーターにこそ、猟奇的なものを感じます。
どの様な動機で、どの様な目的で殺害したかが解明されても、亡くなられた方々は帰ってきません。
また仮に猟奇的異常犯罪者だとして、それが判明した所で再犯防止には役立ちません。
亡くなられた方々や遺族の方々が少しでも心安らぐ日が来られます様に願うばかりです。
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